大正15年9月 學校沿革誌 七『濫觴』より
杉並町小学校は創業の時に馬橋清見寺内に設けられたが、その後これを廃し、阿佐ヶ谷に尋常高等小学校、高円寺に尋常校が新設され、その後天沼に寺の一部を借りて教室とし、1、2年級の児童を収容した。その為馬橋の児童は皆阿佐ヶ谷に通学することとなった。
農村時代には児童の数は多くなかったので、合級または二部制を採用し大正12年の頃でも全体の学級数は12、3に過ぎず漸次郊外の発展に伴い本町移住者の数が次第に増加し、就学児童の数も増加し各校舎が手狭となり教育改善の声も起こってきた。
そこで、大正10年末になって村議会議員と学務委員の中から調査委員を挙げ、同年11年5月には一大改善を作成し半額を寄付金に寄ることにしたが、ある大字の不同意のため不成立に終わり12年に至り町債により古校舎修繕使用として新築は出来ないこととなった。馬橋と高円寺の主張を貫徹することは出来なかった。
そこで、馬橋の有志は馬橋に尋常校6教室を新設することを決議し、金二百円の寄付を町長に申請した。ところが同年9月関東大震災のため移住所が激増し、そのため生徒の数も急激に増加し2部3部の教授法でも殆ど収容することが出来ず、農商務省蚕業試験場の蚕室を借り、また、神社の神楽殿社務所に収容し、その惨状は見るに忍びないものがあった。大正13年度、14年度において低利資金貸下を願い、両年2回金二十数万円によって馬橋、高円寺に第4、第6の学校新設がきまった。これにより大字馬橋の多年に亘る希望を達成することとなった。本校の敷地としては町有地三百坪に過ぎず学校を新設するには千坪以上必要であった。町有地の北隣六百坪は関口紋左衛門氏の所有であり、馬橋の一等宅地で数年以前より土地の発展に伴い借地希望者が多数あったが、学校建設のためにと他に貸与することをせず、長きに亘って犠牲的な便宜を計って下さったことをここに感謝せねばならない。
また、北隅に位 置する350坪の地所は市内住居する人の所有地であったが、他に転売するところ浅賀富蔵氏の尽力により比較的廉価によって買収の協議が整い、大谷順之助氏と計り同氏の力により買収し、低廉の料金にて学校へ貸すことを承諾して下さった。馬橋住民の学校新設の希望は誠に深いもので皆応分に努力を惜しまなかったが、関口・大谷両氏の犠牲的好意が無ければ完全なる土地を獲ることは不可能であったと言える。永遠に第六小学校のために慶賀に堪えざる次第なり。