杉並区馬橋の歴史


馬橋の歴史と地名 大正から昭和へ

桃園川の改修


桃園川元景

 大正12年9月1日関東大震災が起こり、焼け出された大勢の人が馬橋村にも移り住み急速に住宅化されていきました。

 桃園川流域の水田地帯は埋め立てをしなければ宅地にならないので、大正13年迄、稲作りが行われました。高円寺の上野藤吉、大河原房次郎、馬橋の関口林蔵、大谷順之助氏が中心となって桃園川の改修と区画整理を行いましたが工事費を安くあげるため、主として蛇行していた桃園川を直線に正し、川底を掘り下げ、水位 を下げて宅地にする工法がとられました。

 工事が完了するとたちまち住宅密集地になりましたが、大雨が降ると川底が狭いため上流からの雨水が吐ききれず、氾濫した水は旧水田地帯の住宅を水浸しにしました。以後、毎年台風シーズンには水浸騒ぎが起こり、住民の悩みの種になりました。


改修工事後

 昭和36年より桃園川を暗渠にする工事が行われ、完全な下水道になり、地表は幅4~6メートルの桃園川児童公園になって、浸水の心配は解消されました。

 馬橋稲荷の参道中程の石灯籠には関東大震災のことが刻まれています。この石灯籠はそれ以前からあったもので、石の台が三段でしたが、今は二段になっています。たぶん震災により倒壊し修復と同時に震災の記録を刻んだものと思われます。