原始時代には、桃園川流域に人が住んでいたと思われますが、地域の都市化が早かったため、流域から土器などの遺物や、住居跡などの遺跡は発見されていません。江戸時代以前の文献や資料はほとんどなく、僅かに文安4年(1447)の板碑が大谷家より発見されています。馬橋稲荷神社の創建も、鎌倉時代末期の健治年間(1275~1277)と村人に言い伝えられていますがよくわかりません。しかし、神社裏より板碑(室町時代に作られた)が出土しています。
検地は「寛永16年(1639)中川八郎右衛門・関口作左衛門承けてただせり」とありますが現存していません。正保年間(1644~1647)から延宝元年(1673)迄125石でほぼ変わりませんが、延宝2年(1674)の再検地より明治に至るまで、約358石でした。
延宝2年(1674)4月の「武蔵多摩郡馬橋村寅御縄打帳」3冊による記録田方 | 6頂3反3畝2歩 | 高 | 61石7合 |
畑方 | 60長5反1畝14歩 | 高 | 297石1升5合 |
正保年間には、水田が6長9反歩、畑が36町、村高が125石余り、年貢高が27石1斗2升の村でした。それから27年後延宝3年(1675)の年貢割付状(大谷家文書)を見ますと、水田が6町3反歩、畑が60町歩あまりで、村高が358石、年貢高が110石1斗8升7合と記してあります。水田が6反歩減り、畑が24町歩増えただけなのに、なぜか村高が3倍、年貢高が4倍になっています。また、江戸が近いこともあり、生鮮食料(野菜)などで、お金になったという話もあります。
文政4年宗門人別改帳(大谷家文書)の村内55戸の檀那寺を調べてみますと、次のような戸数が書かれています。
馬橋村福泉寺 | 14戸 |
高円寺長仙寺 | 13戸 |
阿佐ケ谷村世尊院 | 11戸 |
馬橋村清見寺 | 7戸 |
中野村宝泉寺 | 5戸 |
田端村天桂寺 | 2戸 |
井草村観泉寺 | 2戸 |
浅草西向寺 | 1戸 |
民家56軒とある文化11年頃から維新に至るまで軒数に殆ど変化がありません。
文化11年頃~維新の軒数文政4年(1821) | 58軒 |
天保2年(1831) | 57軒 |
天保15年 | 51軒 |
明治6年 | 54軒 |
村内の商工業は兼業として文政4年頃に居酒屋が、安政6年頃に質屋が設けられました。