杉並区馬橋の歴史


馬橋の歴史と地名 馬橋村と馬橋稲荷


江戸時代以前~ 江戸時代の馬橋

◆江戸時代以前の馬橋

原始時代には、桃園川流域に人が住んでいたと思われますが、地域の都市化が早かったため、流域から土器などの遺物や、住居跡などの遺跡は発見されていません。江戸時代以前の文献や資料はほとんどなく、僅かに文安4年(1447)の板碑が大谷家より発見されています。馬橋稲荷神社の創建も、鎌倉時代末期の健治年間(1275~1277)と村人に言い伝えられていますがよくわかりません。しかし、神社裏より板碑(室町時代に作られた)が出土しています。

◆江戸時代の馬橋

検地は「寛永16年(1639)中川八郎右衛門・関口作左衛門承けてただせり」とありますが現存していません。正保年間(1644~1647)から延宝元年(1673)迄125石でほぼ変わりませんが、延宝2年(1674)の再検地より明治に至るまで、約358石でした。

延宝2年(1674)4月の「武蔵多摩郡馬橋村寅御縄打帳」3冊による記録
田方 6頂3反3畝2歩 61石7合
畑方 60長5反1畝14歩 297石1升5合

正保年間には、水田が6長9反歩、畑が36町、村高が125石余り、年貢高が27石1斗2升の村でした。それから27年後延宝3年(1675)の年貢割付状(大谷家文書)を見ますと、水田が6町3反歩、畑が60町歩あまりで、村高が358石、年貢高が110石1斗8升7合と記してあります。水田が6反歩減り、畑が24町歩増えただけなのに、なぜか村高が3倍、年貢高が4倍になっています。また、江戸が近いこともあり、生鮮食料(野菜)などで、お金になったという話もあります。

文政4年宗門人別改帳(大谷家文書)の村内55戸の檀那寺を調べてみますと、次のような戸数が書かれています。 

文政4年宗門人別改帳(大谷家文書)の
村内55戸の檀那寺
馬橋村福泉寺 14戸
高円寺長仙寺 13戸
阿佐ケ谷村世尊院 11戸
馬橋村清見寺 7戸
中野村宝泉寺 5戸
田端村天桂寺 2戸
井草村観泉寺 2戸
浅草西向寺 1戸

民家56軒とある文化11年頃から維新に至るまで軒数に殆ど変化がありません。 

文化11年頃~維新の軒数
文政4年(1821) 58軒
天保2年(1831) 57軒
天保15年 51軒
明治6年 54軒

村内の商工業は兼業として文政4年頃に居酒屋が、安政6年頃に質屋が設けられました。