厄除けの御祈願には二通りの目的があるようです。
一つは「このごろ悪いことが続くのでお祓いしてほしい」
もう一つは「厄年なのでお祓いをしてほしい」という内容です。
この事例は同名の厄除け祈願ですが、意味が全く異なります。言うなれば前者は生活の中の歪みの改善『厄除け開運』ということです。後者は人生儀礼の一つ『厄年の祓い式』となります。そこで、双方の厄除けについて考えてみたいと思います。
「悪いことが続く」ことを、「何かに憑かれている」などと言って、目に見えぬものの仕業と考える傾向が現代でもあるようですが、古代でも災いをもたらす神を感じていたようです。
神様は「目に見えぬ・物言わぬ働き」ということをホームページ内の『神道について』に詳しく載せています。このことから、災いをもたらす原因も目に見えぬ働きであり、神と言うことが出来ます。
例えば「禍津日の神」や「荒ぶる神」などです。しかし、この神は西洋で言うところの悪魔とは違います。日本では根本的に悪の神や人はいません。何らかの原因で悪い方向に流転してしまうことを戒めているといってもよいでしょう。「もののけ」や「妖怪」も同様の役割として語られています。
禍津日は「心を誤った方向に進めてしまう働き」であり、言い換えれば誰にでもある「負の心の働き」です。良かれと思って行ったことも、悪い方向に行ったり、失敗してしまったりすることが有ります。しかし本当は気づかぬそれなりの原因が有るものです。人とケンカをしてカッとなって腹を立てる。人の気持ちが分からなくなったり、自分の心も見失ったり、そうした状態で冷静に正しい判断が出来るはずがありません。それが禍津日の状態とも言えます。
また、「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがありますが、これも最初についた小さな悪気のない嘘も、その嘘を隠すためにまた嘘をつき、またまた嘘をつきと次第に大きな嘘になり、何時しか人をだますことが普通になり、人の物を盗むことも平気になってしまうということです。そういう方向に心が向いている時も禍津日です。
早く気が付き反省をし、清く正しい冷静な心に立ち返ることです。その心がわき起こる神様を直日(毘)の神と言います。
荒ぶるとは荒々しい状態になることです。神道には四魂といって「荒魂」「和魂」「奇魂」「咲魂」というのがあります。一つの働きにも様々な現れがあります。平素は静かに恵みを与えてくれる自然も、時として荒れ狂い災いをもたらすことがあります。また、何かを原因としてその表情を変えることも。例えば、山の木々を許容範囲以上に切り開き、山津波となって民家を襲ったとき、山神様が荒ぶる神となったということでしょうし、もっと身近な事でも、触れてはならないことをして、ばちが当たることも有ります。
悪いこと続きを改善する、厄除け開運の祈願は、自分の心に問うて、何が原因なのかをよく考え、清き明き直き正しき真心(誠)と呼ばれる心を持って事に当たって行くことを神様に約束し、禍津日を直日に、荒魂を和魂に転じて神様のご加護を戴くことが大切と考えます。